緑と清流

「自然を楽しむ♪」 が活性化したらいいな

内を見て外を見てから内にアプローチ1~本当の豊かさを追求して~

自宅療養期間を経て、とても感じたのが、自分自身で体をメンテナンスすることの重要性です。昔、私は他力本願の身体の治し方だけしか知りませんでしたが、自分自身でも自分の身体を観察しメンテナンスできると知ったのは、「身体コミュニケーションワークショップ」に参加したときでした。このワークショップは、自分自身の身体を観察しそれに基づいて手当てする、観察つまり「身体との対話」の重要性を伝えてくれています。具体的な観察の仕方やさまざまな手当ての仕方を、複数の参加者と楽しく交流しながら、新たに発見していくアットホームな雰囲気の会で、noboruさんが開催しています。前述の快医学の野本先生をつないでくださったのも、noboruさんでした。なぜこのワークショップを開くようになったのか、インタビューしました。

まず、noboruさんは、これまでの人生の歩みと様々な気づきについて話をしてくださいました。

1.1バックグラウンド
 父は心理学者で、祖父は眼科医、その祖父の意思を継ぎ、おじさんもお医者さん。もともと人間や社会には興味がありましたが、理系であったことから東京工業大学へ入学。その当時の社会情勢は、高度経済成長真っ只中で、色々公害問題も多かった時代。そこで、自然科学の考え方、特に数学は重要と考えましたが、それを突き詰めるのは無理だと思い、それを応用して、社会を変える社会工学科へ進みました。
 修士課程でアジア工科大学(タイ)に留学。その当時、東南アジアには理工系を教える大学がなかったので、ヨーロッパやアメリカ人が中心になってアジア工科大学は設立されました。そこでの留学を通して、経済力だけではなく、人間関係や気持ちもとても重要であることを気づかされる3つのエピソードがあったそうです。1つ目、タイの社会はとても面白くまた本当に食べ物や果物がとても美味しく、日本とは違う豊な社会があることが分かったことです。日本はその当時高度経済成長期でどんどん経済力をあげてった時代でしたが、こんな豊かさ、幸せがあるのかとnoboruさんはショックを受けました。お金ではない豊かさ、GDPやGNPで表せられない豊かさを肌で感じたそうです。2つ目のエピソードは、居住環境計画という学科のアメリカ、カナダ、イスラエル人の先生の授業でスラム街へ調査に行き、「結構豊かで元気そう」と思ったことです。スラムにあるご家庭に行き、友達のタイ人が通訳してくれながら「困りごとを」聞いて回りました。住居環境が悪いことや経済金銭のことを返答されるのかなと思ったら、そんなことは全然関係なく、1人の女性が旦那に逃げられた事を話してくれたといいます。居住環境の問題ではないんだ、noboruさんはその方が「真実」だなと強く思ったそうです。3つ目はタイ人の同級生の友人の中に、政府の役人、外交官の子供さんがいました。アメリカ育ちでとても裕福なその彼は、「人間だれしも見下されることなく対等の関係でいたい」と話してくれました。どんな社会の人間にも共通する最も大切な基本的な人間関係を知ることができたといいます。このような3つの体験から、経済力以上に、人間関係や気持ちがとても重要であることを気づかされたそうです。

 

1.2科学的思考の追求

大学を卒業後、三菱総研で2年働きました。経済学を学びながら研究し、大学よりもさらに深いところまで経済学を知ることが出来、また様々な人と交流しながら人のつながりができたようです。

1977年東京工業大学から助手の声をかけられ、地域開発の方法を経済のモデルを使い研究し、当時の理論は現実には合わない制約があると感じたようです。そこで新たに考えたのが開発速度という考え方です。どれくらいの速度で地域を、変化させていくのが良いのかという研究で、例えば経済の研究は通常、途中の状況を考慮しないが、その研究は開発の過程に着目したものだったようです。人間、人生の途中が大事で、その延長で地域開発も同じではないか、途中は我慢しろというのは何かおかしいという考えからだったといいます。これをまとめて1981年博士学位論文を書き、その後東大の工学部から声かけられ1982年-1983年東京大学工学部講師になられたようです。

1983年-1984東京大学 工学部 助教授になり、土地の価格の研究、交通や経済を利用し、地域がどのように変わるかの研究を本格的におこないました。自分がやりたいことだけではなく、勤めた先でお手伝いをして専門を学び、その経験で自己主張して自分はこれしかできないというスタンスではなく、手伝いをしながら学ぶ大切さも知っていったようです。助教授をして学んだり得た情報は、その後自分の持っている経済学の知識と合わせる事で、今も役に立っていて、このような経験を通して色々共存していく必要性を学んだそうです。

1984年から東京工業大学 社会工学助教授になり、自分の研究室を持ち、経済学に関係している交通、環境に関する研究をしたそうです。

その後、環境と経済をもっと深く学ぶためロンドン大学経済学部で客員研究員(1988年-1989年)となり当時の環境経済を学ばれました。
1991年東京工業大学社会工学専攻の教授になってからの研究は、環境経済が主な研究で、実験調査を多く実施するものと、土地の価格に関することの2本立てでした。社会工学は問題意識がとても広い分野で、研究室を立ち上げてから本当に色々研究をし、その一つに国土計画の分野がありましたが、色々な事が関係してしまう研究でした。例えば人口予測、地域計画や地域開発、経済が発展して人口が増えるかなどの研究も、全て結局「家族」の単位が重要なのではないかとの考えに至りました。そこで、文化人類学で「家族」を研究している方々から学び、自分の専門に生かそうとしましたが、家族の定義もあいまいで、色んな説があることが分かったようです。結局、科学的な手法で実験する一方、もう少し「考え方」が重要だと感じていき、色んな考え方が世の中にあることを追及していくと、どんどん哲学的になっていったといいます。その時、自費出版した本が、1冊はanalytical分析的に行いましょうということを書いた本、もう1冊は、考え方が重要ですよねという本を書かれました。
2000年社会工学入門という本を出版しましたが、分析手法と哲学が少し入っている本を書き、その後、どんどん哲学の力点が大きくなっていったようです。

2000年-2001年ケンブリッジ大学 土地経済学部で客員研究員を務められました。ケンブリッジの街中では音楽会が定期的に開かれ、大学の中でも大小の美術館、コンサート、演劇があり、アートが大学に根付いていたそうです。学生自身も上手い下手関係なく、自己表現するものとしてアートがあって、音楽をやったり、絵を描いたりする機会が多くあったといいます。noboruさん自身も積極的に絵を描いたり、絵を買う、また自分で色々アートに触れてみるととても面白く、アートは特別のものではなく、日頃から楽しんでやるものであると肌で感じたそうです。この「豊かさ」は日本の工業大学にもないとまずいと考え、東京に帰ったのち、アートアット東京テックを企画運営し勢力的に動かれました。アーティストとのつながりもこのころから増えていったようです。
日本語でしゃべり伝える、英語でしゃべり伝える、その他の手段としてアートを表現手段としても利用できます。例えば、絵でもいいし、音楽でもいいし、ダンスでもよいのですが、一緒にやることで心が開きやすくなり、言葉だと言葉では言えないこともある一方で、コミュニケーションの道具としてアートの可能性も十分に秘めています。


ここまでは、noboruさんの経歴とその中で気付いた、科学的分析だけでなく哲学やアートなどの重要性、またそれを精力的に広められていったお話を書きました。

私が「科学はまだ成長段階ですかね?」と聞いたら、noboruさんは「成長段階どころではなく科学はまだ幼稚な段階である。世の中、科学の時代とは言われているけど、考え方、物事共に完全に100%正しいことなんてない」とnoboruさんは力説しました。
次の記事では、noboruさんがさらに「健康」に興味を持ち始めたお話を書きます。

 

 

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