緑と清流

「自然を楽しむ♪」 が活性化したらいいな

内を見て外を見てから内にアプローチ2~人生100年時代を生きるために~

 

 

green-and-clearstream.hatenablog.com

 

前の記事では、科学的手法を用いて研究を手掛けている中で、その過程で生じるデータ集め、データの単位の考え方も重要であることや、哲学やアートの重要性に気づかれ、精力的に取り入れる動きをされていたnoboruさん。その後「健康」に関心が移っていくのは、どのような経緯だったのでしょうか。


2-1.経験した体調不良
東京工業大学で教授になり、学部長などの役職やアートに触れる場を提供する世界文明センターを企画設立し、ディレクターとして多忙を極めた毎日を過ごす中で、体調が悪くなっていった。

大学の関係で毎年人間ドックを受けていた。行くたびに、血尿が出ているや胃も荒れているから診てもらった方が良いと言われ、病院へ行き、毎年胃カメラを飲むが「大丈夫でしょうね」の繰り返しだった。おじさんの大学病院で専門医やその友人に調べてもらうこともあったが、数年調べても結局原因は分からなかった。人間の体にはわからないことが多いといわれた。ついに大学の検診で最後には「大丈夫ですよ。こんなに血が出ているのに生きているから、悪い病気だったらとっくに死んでいます。」とお医者さんに言われる。

noboruさんの身体は何にもよくならないまま、どんどん悪くなって、下痢と便秘を繰り返すようになった。そこで漢方の針灸の先生に行くようになる。針灸はそれまでにやったことはなかったが、確かに針灸をしてから1週間は元気になるが、その後またすぐ良くなくなった。しばらく通っていたが針灸ばっかりに頼るのもどうかと思っていった。

その当時身体の状況はかなり悪かった。ドイツに滞在中、友人のドイツ人に人間のオーラが見えるという人がいて、その方に、「黒いものが出ていてオーラが少なく、早く医者に診てもらった方がいい」と言われた。noboruさんは相当ショックを受けて自身でも死ぬんではないかとも思った。痛いところはないものの、確かに症状的にも便秘と下痢が繰り返され止まらない。これは放っておいたらまずいのではないかと自身でも思った。

別の友人の友人が癌を自分で治したということを聞き、その方に連絡したところ、その方が色々探してくれて、野本先生を紹介してくれた。しかし、行くかどうかは相当悩み、3カ月くらい経ってしまってから意を決して行った。そこは快医学ということで、色々診断してもらい、漢方の処方を受けた。体調は相当悪かったようで癌の特効薬、蛇舌草(じゃぜつそう)やビワの葉を処方された。また他にも食生活の改善など色々と教えてもらえた。noboruさんには信じられなかったが、そこでの教えの通り実践したら体調は相当良くなっていった。そのまま身体は好転し、快医学に出会ってからはお医者さんに行かなくても済むようになっていった。
しかし、一時期noboruさんは、歯も自分で治せるものかと、自然治癒も大事にする歯医者さんと2年くらい試みたことがあったが、治すのは無理だった。結局歯もグラグラのままで、膿も出ているようなので、その歯医者に、一部の歯は抜いたり、その他は歯茎を固くさせたり整えてもらったりして治すことが出来た。その経験から、自分の力では治せないところもあると強く感じた。

2-2.少しでも誰かの役に立てばとの想い
人間ドックに通いつめれば毎年のある瞬間のデータを見てもらえるが、データを断片的に見ているだけである。科学的手法を用い研究を長年手がけ、さらにはデータの考え方も重要であると提唱していたnoboruさんにとっては、お医者さんのデータの見方はいい加減に思えてしまう。また西洋医学を信奉していた叔父が退職後「患者さんはみんな同じではない、そして、状況もどんどん変わるよね、だから実際は本当に難しいんだ」。叔父は有名な皮膚科の教授で道を究めた人ではいたが、人間の体が複雑で、分からないこともあることを教えてくれた。事例がいっぱいあれば、ある程度科学的に調べることが出来るが、特殊な病気の場合は例が少ない。叔父が話してくれたのは2例しかない病気の事例で、ある手法が上手くいったからそれを学会で発表したが、2例しかないから、本当にどうしようもなかった。科学的に判断しようとしているお医者さんですら、2例では科学的分析に限界があるということ、本音はそこにあることも忘れてはいけないと強く感じた。

一方、あまり知られていない快医学であるが、快医学の本を読み理論も学んで、これはもっと学んだ方がいいと思い4日間のセミナーを受けた。これは相当深いし、なんとなく正しいと思うのと、自分でやっても効果があったので、ワークショップを開き皆に教えるようになっていった。その後も、色んな人から色々情報をもらい、快医学以外でも、自分で実践してみて効果がありそうな事は、このワークショップで共有していっている。快医学とは、簡単に言うと中国の医学が根本にあって、漢方、さらには経絡などの教え、考え方があり、そこから派生した日本独自の考え方など色々あってごちゃまぜだが、それで十分。少しでも役に立てばいいと思い、理論にこだわる必要はないと思っているとnoboruさん。もしかしたら人によっては自分で治せる人もいるかもしれないが、みんながみんなそうではないので自然治癒や快医学も宗教みたいに信じてしまうのはまずいとも思っている。

最近はnoboruさんメンタルにも関心があり、それも無視してはいけないという。それは身体も精神も表裏一体であること。例えば、ボディつまり身体だけ鍛えると、精神も上手くいくかというとそう単純ではなくて、精神的なメンタルのことも無視してはいけない。ボディは比較的素直に反応してくれるが、精神的、エゴの部分はドロドロしている部分であり内側を鍛えるのがとても難しいので、メンタルとボディのつながり、それも学び自身の身体で実験を試している。常に色んな事を勉強、研究する目線でいるnoboruさん。自分の身体を使い実験して、効果のあるものを皆に伝えている。

人間みんな違うし、一人一人も年月を重ね変わっていくことを根底に据えて、自分自身の身体を観察し、必要な時は手当してあげるような、身体との意思疎通の重要性を伝え、少しでも誰かの役に立てばとの想いを込めて、身体コミュニケーションワークショップを開催している。

またnoboruさんは人生100年時代を生きるための知恵を皆と共有するために新しく BAAL メソッドも教えている。BAAL は Body(身体)を意識し(Aware)、共同創造のためのアート(Art)、と生きるための論理(Logic)を意味する。ここでは毎回、身体とのコミュニケーションを図ったあと、共同で Art 創造を行い、心を開き、毎日の生活を良りよく生きるために知っておくべき大切なロジックをやさしく学べる。この学校では毎日をよりよく生きる具体的な知恵を教えていて、例えば具体的にお金について、健康に良いといわれる食品や薬の効果についてなどを伝えていている。

前記事に書いた科学的手法を追求し得た様々な気づきと、自分自身でおこなう身体コミュニケーションが必要という気づきを合わせ、さらに日常生活で使える論理を伝えているBAAL メソッド、noboruさんだからこそ開ける学校だと思います。

理論と論理、万物

最後に、今回のインタビューで出てきたロジックや理論を、noboruさん監修のもと整理をしたいと思います。「理論(科学的思考)」とは、矛盾なく整理した理屈の体系でありますが、それで説明できない事柄も世の中には多くあります。その中には、「ロジック」論理でわかる部分もありますが、「ロジック」論理でわからない事柄も世の中には多くあります。アートは言語では伝えきれないことも含むので、ロジックでは表せない部分も含みます。世の中には「ロジック」論理でわからない「万物 宇宙 ユニバース」もあります。科学の時代と言われ、科学が絶対と考えられがちな世の中ですが、理論、そして論理ではわからないこともたくさんあるのです。
私はnoboruさんの全体の話をお伺いして、科学の次の段階は、分からないことも認識、考慮した中で、発展していく科学的思考の飛躍が起こるのではないかと思いました。まるで「0を発見した人類」のように、「科学的思考では表せないことを認識した科学」が、科学の幼稚な段階を次のステージに上げるのではないのでしょうか。

 

内を見て外を見てから内にアプローチ1~本当の豊かさを追求して~

自宅療養期間を経て、とても感じたのが、自分自身で体をメンテナンスすることの重要性です。昔、私は他力本願の身体の治し方だけしか知りませんでしたが、自分自身でも自分の身体を観察しメンテナンスできると知ったのは、「身体コミュニケーションワークショップ」に参加したときでした。このワークショップは、自分自身の身体を観察しそれに基づいて手当てする、観察つまり「身体との対話」の重要性を伝えてくれています。具体的な観察の仕方やさまざまな手当ての仕方を、複数の参加者と楽しく交流しながら、新たに発見していくアットホームな雰囲気の会で、noboruさんが開催しています。前述の快医学の野本先生をつないでくださったのも、noboruさんでした。なぜこのワークショップを開くようになったのか、インタビューしました。

まず、noboruさんは、これまでの人生の歩みと様々な気づきについて話をしてくださいました。

1.1バックグラウンド
 父は心理学者で、祖父は眼科医、その祖父の意思を継ぎ、おじさんもお医者さん。もともと人間や社会には興味がありましたが、理系であったことから東京工業大学へ入学。その当時の社会情勢は、高度経済成長真っ只中で、色々公害問題も多かった時代。そこで、自然科学の考え方、特に数学は重要と考えましたが、それを突き詰めるのは無理だと思い、それを応用して、社会を変える社会工学科へ進みました。
 修士課程でアジア工科大学(タイ)に留学。その当時、東南アジアには理工系を教える大学がなかったので、ヨーロッパやアメリカ人が中心になってアジア工科大学は設立されました。そこでの留学を通して、経済力だけではなく、人間関係や気持ちもとても重要であることを気づかされる3つのエピソードがあったそうです。1つ目、タイの社会はとても面白くまた本当に食べ物や果物がとても美味しく、日本とは違う豊な社会があることが分かったことです。日本はその当時高度経済成長期でどんどん経済力をあげてった時代でしたが、こんな豊かさ、幸せがあるのかとnoboruさんはショックを受けました。お金ではない豊かさ、GDPやGNPで表せられない豊かさを肌で感じたそうです。2つ目のエピソードは、居住環境計画という学科のアメリカ、カナダ、イスラエル人の先生の授業でスラム街へ調査に行き、「結構豊かで元気そう」と思ったことです。スラムにあるご家庭に行き、友達のタイ人が通訳してくれながら「困りごとを」聞いて回りました。住居環境が悪いことや経済金銭のことを返答されるのかなと思ったら、そんなことは全然関係なく、1人の女性が旦那に逃げられた事を話してくれたといいます。居住環境の問題ではないんだ、noboruさんはその方が「真実」だなと強く思ったそうです。3つ目はタイ人の同級生の友人の中に、政府の役人、外交官の子供さんがいました。アメリカ育ちでとても裕福なその彼は、「人間だれしも見下されることなく対等の関係でいたい」と話してくれました。どんな社会の人間にも共通する最も大切な基本的な人間関係を知ることができたといいます。このような3つの体験から、経済力以上に、人間関係や気持ちがとても重要であることを気づかされたそうです。

 

1.2科学的思考の追求

大学を卒業後、三菱総研で2年働きました。経済学を学びながら研究し、大学よりもさらに深いところまで経済学を知ることが出来、また様々な人と交流しながら人のつながりができたようです。

1977年東京工業大学から助手の声をかけられ、地域開発の方法を経済のモデルを使い研究し、当時の理論は現実には合わない制約があると感じたようです。そこで新たに考えたのが開発速度という考え方です。どれくらいの速度で地域を、変化させていくのが良いのかという研究で、例えば経済の研究は通常、途中の状況を考慮しないが、その研究は開発の過程に着目したものだったようです。人間、人生の途中が大事で、その延長で地域開発も同じではないか、途中は我慢しろというのは何かおかしいという考えからだったといいます。これをまとめて1981年博士学位論文を書き、その後東大の工学部から声かけられ1982年-1983年東京大学工学部講師になられたようです。

1983年-1984東京大学 工学部 助教授になり、土地の価格の研究、交通や経済を利用し、地域がどのように変わるかの研究を本格的におこないました。自分がやりたいことだけではなく、勤めた先でお手伝いをして専門を学び、その経験で自己主張して自分はこれしかできないというスタンスではなく、手伝いをしながら学ぶ大切さも知っていったようです。助教授をして学んだり得た情報は、その後自分の持っている経済学の知識と合わせる事で、今も役に立っていて、このような経験を通して色々共存していく必要性を学んだそうです。

1984年から東京工業大学 社会工学助教授になり、自分の研究室を持ち、経済学に関係している交通、環境に関する研究をしたそうです。

その後、環境と経済をもっと深く学ぶためロンドン大学経済学部で客員研究員(1988年-1989年)となり当時の環境経済を学ばれました。
1991年東京工業大学社会工学専攻の教授になってからの研究は、環境経済が主な研究で、実験調査を多く実施するものと、土地の価格に関することの2本立てでした。社会工学は問題意識がとても広い分野で、研究室を立ち上げてから本当に色々研究をし、その一つに国土計画の分野がありましたが、色々な事が関係してしまう研究でした。例えば人口予測、地域計画や地域開発、経済が発展して人口が増えるかなどの研究も、全て結局「家族」の単位が重要なのではないかとの考えに至りました。そこで、文化人類学で「家族」を研究している方々から学び、自分の専門に生かそうとしましたが、家族の定義もあいまいで、色んな説があることが分かったようです。結局、科学的な手法で実験する一方、もう少し「考え方」が重要だと感じていき、色んな考え方が世の中にあることを追及していくと、どんどん哲学的になっていったといいます。その時、自費出版した本が、1冊はanalytical分析的に行いましょうということを書いた本、もう1冊は、考え方が重要ですよねという本を書かれました。
2000年社会工学入門という本を出版しましたが、分析手法と哲学が少し入っている本を書き、その後、どんどん哲学の力点が大きくなっていったようです。

2000年-2001年ケンブリッジ大学 土地経済学部で客員研究員を務められました。ケンブリッジの街中では音楽会が定期的に開かれ、大学の中でも大小の美術館、コンサート、演劇があり、アートが大学に根付いていたそうです。学生自身も上手い下手関係なく、自己表現するものとしてアートがあって、音楽をやったり、絵を描いたりする機会が多くあったといいます。noboruさん自身も積極的に絵を描いたり、絵を買う、また自分で色々アートに触れてみるととても面白く、アートは特別のものではなく、日頃から楽しんでやるものであると肌で感じたそうです。この「豊かさ」は日本の工業大学にもないとまずいと考え、東京に帰ったのち、アートアット東京テックを企画運営し勢力的に動かれました。アーティストとのつながりもこのころから増えていったようです。
日本語でしゃべり伝える、英語でしゃべり伝える、その他の手段としてアートを表現手段としても利用できます。例えば、絵でもいいし、音楽でもいいし、ダンスでもよいのですが、一緒にやることで心が開きやすくなり、言葉だと言葉では言えないこともある一方で、コミュニケーションの道具としてアートの可能性も十分に秘めています。


ここまでは、noboruさんの経歴とその中で気付いた、科学的分析だけでなく哲学やアートなどの重要性、またそれを精力的に広められていったお話を書きました。

私が「科学はまだ成長段階ですかね?」と聞いたら、noboruさんは「成長段階どころではなく科学はまだ幼稚な段階である。世の中、科学の時代とは言われているけど、考え方、物事共に完全に100%正しいことなんてない」とnoboruさんは力説しました。
次の記事では、noboruさんがさらに「健康」に興味を持ち始めたお話を書きます。

 

 

green-and-clearstream.hatenablog.com

 


 

引いてしまった風邪をやり過ごす方法

「身体を温めておくこと」「胸腺マッサージ」を自宅療養期間にやっていたが、私自身の体調は、喉が痛く咳が出る症状だけにとどまり、何とか子供の世話をすることができました。果たして、この行動は良かったのかと後々気になり、野本先生(

こころとからだの声に、耳を傾ける | れんげそう庵 )に連絡して聞いてみました。

*************************

胸腺マッサージや、胸腺やのど、首をあたためるのは、風邪をやりすごすのに、とてもいいやりかたです。

ぜひ、ご自身の経験を、周りの方にお伝えください。

快医学では、リンパ系教育機関である胸腺のほかに、肝臓(右肋骨)、お腹、腎臓(腰)、足の裏など、身体の土台となる基本の臓器の温熱手当と、リンパ系の最大の臓器である脾臓(脇腹)の温冷刺激も合わせてやることをお勧めしています。基本の内臓の温熱手当てをすると、内臓の働きが活性化し、ウィルスや細菌を排除する免疫力や、病理産物を排せつする力や、体力を回復させる力が高まり、身体の土台がしっかりしてくると、楽に風邪(コロナも含めて)を乗り越えられます。

具合が悪い時は、小型アイロンや、ドライヤー、湯たんぽなどを利用して、ぜひ基本の内臓の温熱の手当てをやってみてください。

温めることで、血液やリンパの循環がよくなり、リンパ球の動きが活発になり、細胞内の酵素の働きが活性化して、代謝が促進されるといわれています。
感染した時に発熱するのは、ウィルスや細菌をやっつけるために、身体が熱をあげて対戦しているためです。

だから、熱が出ている時には、無理に薬で熱を下げるのでなく、身近なものを使って手当てして、少しでも楽に気持ちよく発熱の時期を過ごすことで、自分の免疫の力でウィルスや菌を抑え込むことができます。

野口整体創始者 野口晴哉さん(1911-1976)は、「風邪の効用」と言う本を書いておられて、風邪を上手に引くことで、身体のリセットができると伝えてくれています。




マッサージをすることも、皮膚を刺激することでリンパや血液循環を良くして、摩擦熱で温めることにもなります。

すでにご存じかもしれませんが、快医学を始めた、私の師匠の瓜生良介氏が書いた、『健康への羅針盤 いのちの法則 快療法 瓜生良介著』 の中に、胸腺マッサージについて項目があります。

 




また、「家庭でできる 自然療法 誰でもできる食事と手当法」東城百合子著 も、お勧めです。私が子育てしている時に、ずいぶんお世話になりました。風邪の時の梅醤番茶や、こんにゃく音湿布、中耳炎の時はユキノシタ、など、いろいろ書いてあります。




*************************


他にも風邪の時に良い食べ物とか、熱の時の手当てとか、言い出したら、きりがないくらい、いろんな自然療法があるようです。いろいろ、調べてみたら面白いですよと教えて下さりました。

このブログを読んで、少しでも、快医学や自然療法に関心を持ってくださる方が増えると嬉しいです。


このメッセージを頂き、とても感謝していると同時に、まだまだ私は知らない事が多いので、子供を育てながら学んでいこうと感じました。

免疫力を上げる

療養期間が無事に終了し、漠然と免疫力を上げる子供や自分に合った方法を調べておこと感じていた時、「こども免疫教室」という本を見つけてすぐさま手に取りました。

 

産まれた時から持っている自然免疫と、未知の病原菌が体内に入るたびに諸症状が出ながらも新しい免疫、獲得免疫を手に入れるようです。病気の症状は辛いけれども、それは体が頑張っているサイン
免疫の仕組みから、免疫を下げてしまう要因、免疫を高める方法、生活習慣などが、とても分かりやすく書かれており、すらすらと読めました。
子供に健康的に元気に育ってもらいたいので、日々取り入れられることは取り入れていきたいと感じました。

子どもと共に育つ2

 

子どもと一緒に、自宅療養期間を経て、以下2つの重要性を再認識しました。

①    防災用の備蓄と一緒に子供や自分が体調不良の時用の備えをしておく
②    免疫力を上げる子供や自分に合った方法を調べておく

人それぞれ、千差万別の自宅療養期間だと思いますが、私たちは親子3人、2DKのアパート住まいです。隣駅にパートナーの実家があります。
 蔓延防止措置の適応が始まった金曜日、昨晩から発熱があったパートナーが、寝ても治らなかったようで体調悪そうに起きてきました。新型コロナウィルスのニュースが連日報道される中、体調不良で心配になり前日、念のため市販の検査キットを実施したら陰性。しかし、その日の朝に体温を測ったら38度越えだったので、発熱外来に電話し、病院へ行ってきてもらいました。パートナーは新型コロナウィルス陽性ということで、私と子供は濃厚接触者になりました。濃厚接触者なので検査をお願いしますと病院へ電話したら、当日の予約はいっぱいだったため、月曜日に予約を入れてもらいました。住んでいる場所が狭く、子供への感染も心配なのと、一緒にいては体調不良のパートナーがゆっくり休めないだろうと、施設療養をパートナーには希望してもらいました。しかし、すぐには宿泊療養に入れず、自宅療養するために隔離の準備をしました。
ストレスがかかると免疫力が低下しこちらも感染すると思い、パートナーができる範囲の行動をしてもらうよう依頼(例えば共有スペースに出たら、触ったところはアルコールシートを使い自身で除菌してもらうなど)。隔離生活を2DKで試行錯誤した2日間でした。日曜日に施設療養の空きが出て、施設療養をしに家をでました。
月曜、私は子供と2人で検査して、2人とも陽性。濃厚接触者の自宅待機期間は、生活リズムを整える期間にしようと息込んでいた私も、戦略を変更しました。
寝る時間をしっかり確保するのと、身体を温めておくことを心がけました。例えば、子供が眠そうにしてたので寝せて自分も仮眠したり、少し喉痛いかなと感じたので喉を温めながら過ごしたりしていました。
 また免疫力アップにいいと前に聞いたのを思い出し胸腺マッサージをしてました。喉の下、鎖骨が2つ合わさるところの下の方を、または喉のくぼみのところから、指3本分くらい下がったところを、手で軽くこぶしを作り優しくさするような胸腺マッサージです。
 通常「症状が出てから病院行き治療法を確認して治す」のが、「症状が出る前に感染確認、その後症状が出てくる」不安というのがあるのかと、コロナの検査をしてみて感じました。幸い、パートナーの実家が、私と子供が2人で自宅療養をしていることをとても心配してくださり、小まめに連絡をくれて何か買い物あるかなど連絡をくれました。
 火曜日の朝は平熱ぐらいだけど子供はどこか元気なく、あまり飲み食いしなくなり、昼頃から体温が上がってきて夕方ごろには37.8度。子供にはそれまで家にあったクッキーなど、気を引くものを食べさせていましたが、喉が痛いからか、まずいと言って食べません。
 本当にありがたいことにゼリーなど喉越しの良い物の買い物を頼んで、ジュースや子供用スポーツ飲料、ゼリー飲料、ゼリー、果物、子供用せんべいなど、自分では頭が回らない中、様々な物を買ってきていただきました。様々な飲み物食べ物、珍しい物、普段好きな物や飲み物を少しづつ口にして、果物に関してはいっぱい食べることが出来ました。
また、幸い子供が少し前に、アデノウィルスで熱を出して病院に行った経験とその時もらった解熱剤もあり、子供の発熱には慣れていました。子供の安静は、寝たい時寝かせて、遊びたい時遊ばせ、食べたい食べ物を食べさせると聞いていたので、そのまま実行しました。翌日には熱が下がり、踊って遊んぶくらいに回復はしました。

子どもと共に育つ1


自分に子どもが産まれるまで、周りに子どもがいる環境で日常生活をしている人が少なくなった今、新生児に触れるのが我が子が初めてという場合がよくあります。私もその一人でした。

子どもが生後4か月になりました。色んな気づきを行政サービスで訪問してくれた助産師さんから学びました。
子育ては必ずしも皆同じとは限らないけど、少しでも多くのお母さんが気づきを得て
視野を広く持ち、子育てを楽しくやってもらえたらと思い私なりにまとめてみました。


・災害や緊急時の対応のために備えておきたいこと

 地震の時など、赤ちゃんの上から覆いかぶさり、赤ちゃんを守るようにするとよいそうです。
 いざというときに赤ちゃんが親が覆いかぶさることに慣れていないとそれだけで大騒ぎになってしまうため、日常の遊びから覆いかぶさる動作をしているといいと教えてくれました。
 また地震の時は風呂敷があると、覆いかぶさる親が上から風呂敷を被れば、飛び散るガラスから身を守れます。また風呂敷は荷物を運ぶのも便利だし、水を含みにくいからケガをした時の止血、避難先での座る場所など様々な用途で利用できます。
  
 赤ちゃんの成長は早いので必要になる物は逐一変わっていきます。そのため2か月ごとに見直すとよいそうです。また果物はそのまま食べれ、離乳食にもなるので常に家に果物が置いておくように心がけるとわざわざ防災用食品を買わなくても大丈夫です。
 いつも使うもののを少し多めに家に置いておくだけでいざというときの備えになります。 
 
 避難時の持ち出しセットを出口付近に2つ用意する。1つ目は赤ちゃんと一緒に避難するときに持ち運べる量のバック。もう一つは非難が長引いた時に、他の家族などに頼んで持ってきてもらうバックです。

 子どもに何かがあった時、救急車を呼ばなくてはいけなく、絶対慌てます。慌てることは皆同じなので、もし緊急の場合、何をどうしたらいいかをあらかじめ調べておき目の付くところに貼っておきましょう。
 夜間救急とかタクシーの番号とか、誤飲や中毒110番。また119番かけたら自宅の住所や携帯番号を言わなくてはいけないため、目の付く場所に貼っておくとよいそうです。 

 下記のような便利なサイトもあります。救急車を呼ぶか迷ったときはぜひ下記サイトを参考にしてください。

 こどもの救急 http://kodomo-qq.jp/index.php

 
・ミルクの飲む量
新生児は満腹中枢がまだ発達していないため、母乳やミルクの飲みすぎもあります。
 ミルクが足りなくて泣くのは想定していたのですが、飲みすぎて苦しくて泣くこともあることは産後ケアの助産師さんに教えてもらい私は初めて知りました。
 赤ちゃんも成長するのでしっかり観察してあげたら気づくのかもしれませんが、私にとっては飲みすぎを想定してなかったので驚きでした。
 飲んだ後の様子などを観察すると飲みすぎてお腹をのけぞり苦しい格好をし、飲んでもその後不機嫌で泣いていました。
 ミルク缶に書かれている飲む量は理想的な量であって、必ずしもすべての赤ちゃんに当てはまるわけではないそうです。そのため目の前の赤ちゃんを見て判断していいそうです。
 ミルクを作る側に立った時、少なすぎて栄養失調になり訴えられる可能性よりは、多めに書いてそれを回避したいというのもあるようです。

 1か月検診後は、なかなか産院に行くことはないと思います。でも赤ちゃんは日々成長していて、1か月検診後も変わります。私の住む場所では、3か月検診までは何も検診はないところですが、行政サービスの訪問や新生児の親の交流場所などに行き色々学んでいます。
 産後、回復したら少しづつ出歩くのも赤ちゃん、お母さんにとってリフレッシュになります。
 家の近くなどで母乳やミルクのことを相談できる場所を探しておいた方がいいと思います。

 明らかにぐったりしていたり、ミルクの飲みがいつもより悪かったりしたら風邪や病気の可能性もあります。上記のこども救急を参考にしながら対応すると良さそうです。 
 

・自分自身を持つこと
自分の考えや感覚をしっかり持ちつつ、赤ちゃんの状態を見ながら判断することの重要性を教えていただいきました
初めはくしゃみをしていただけで、風邪を引いたのではないか、寒いのではないかと私はあたふたしました。
しかし、赤ちゃんはいつも通り元気に動き、ミルクもよく飲み熱もなさそう!この場合は風邪ではなく空気が少し変わっただけで生じているくしゃみでした。
赤ちゃんの鼻には鼻毛がなく、取り込んだ空気が気道に直接入ります。そのためくしゃみをしやすいようです。

赤ちゃんをしっかり観察しつつ、数字にとらわれすぎないようにする。例えば、検温を毎日していなくてもいつもと違うと気づけるようにすることを心がける。


ただ収集した情報を鵜呑みにして、自分は違うとか不安になる必要はありません。
情報をどう自分の家に適応していくか。情報ばかりに流されて、必要以上に不安にならないようにすることが大事だと気づかされました。

お金を動かし、社会を動かす2~日本を見つめ直しながら~

 green-and-clearstream.hatenablog.com

 

前回の「お金を動かし、社会を動かす」でご紹介した吉田様のインタビュー、多くの人に投資に関心を持ってほしいという部分をご紹介しました。ここでは、今ある常識にとらわれないでいてほしいというメッセージを中心に掲載します。

2-1.投資や経済の流れは外国から入ってきたものなのか?
 よくニュースなどで聞く投資や経済に関するものには外来語が数多く含まれています。例えば近年、投資家の投資判断や上場企業の経営目標の指標にROE自己資本利益率)がよく使われています。これは分かりやすい指標で国民を引っ張っていく、特にアメリカのような多民族国家の方法として世界に広まっていった指標のようです。サスティナブル、ESG投資と外来語が混ざっています。また経営学といえばMBAを学びます。
しかし、吉田様は「日本の経営学者はMBAの本場のアメリカのことばかり注目するが、アメリカ建国以前から創業している日本の企業が、なぜ長く続いてきたのかをしらべている研究者がいないのは残念だ」とおっしゃいます。
投資のようなお金の流れは古来より日本にもあり、日本の企業は外国の企業に比べて寿命が長いと言われるそうです。日本の歴史にも何か、サスティナブル=持続可能な投資のヒントになるようなことがあるようです。

-2.日本を見つめなおす
 日本の企業は外国の企業に比べて寿命が長いと言われます。それは他の国や違う民族に征服され王朝が変わるようなことがなかった国で、必然的に事業や組織も残りやすく、寿命が長いことが挙げられます。そのため、アメリカ建国以前からの企業も多いそうです。
現存する世界最古の企業は日本にあります。法隆寺を建築した企業で、聖徳太子の時代から大工の集まりとしてはじまった「金剛組」で、創業は578年です。2005年に、経営危機に陥りましたが、高松建設株式会社の出資を受け、「金剛組」として、今も100人以上の宮大工を抱えているそうです。
株式のように、出資者に対して何かを還元する流れは、奈良時代からありました。僧侶が技術者だった時代、村の整備を次に示すようなお金の流れで進めていたようです。遣隋使や遣唐使として派遣された僧侶は、様々な土木技術を覚え日本に持ち帰った人もいました。村を収めている豪族へ事業の説明をしてお金を出してもらい、民には食料を支給する代わりに工事に関わってもらうことで治水整備を進めていきました。すると災害に強い村ができ、出資者である豪族は収穫量の増加という形でリターンを得ることになります。
 東大寺の大仏建造の時も同じような仕組みで、この時は精神的な安定が出資者へのリターンとなりました。その時代、死後の世界はどうなるのかが、公家や貴族の間では一番の心配事でした。そのため、大仏の事業に貢献すれば極楽浄土に行けるということを信じ出資したそうです。
 近江商人の思想として「三方よし」は知られています。これは「売り手よし、買い手よし、世間よし」のことをさし、売り手の都合だけで商いをするのではなく、買い手が心の底から満足し、さらに商いを通じて地域社会の発展や福利の増進に貢献しなければならないという意味です。長い歴史を持つ日本の体制で、このような「三方よし」は新しい流れであります。歴史を読み解くと日本はひどい商売をしている商人が多かったと、井原西鶴の「日本永代蔵」にも書いてあります。例えば、米屋では1号の升を仕入れるときは大きめの升、売るときは小さめの升にして商売をしていたところがあったそうです。井原西鶴は日本にはずるい商売をする企業が多かったため、中国の商人を見習えとまでいったそうです。そのような時代のなか、「三方よし」は例外中の例外であって、「三方よし」をきちんと守るような、優良な企業がその後まで残ったのかもしれません。そのため「三方よし」が広まったかもしれませんが、そこまで深く研究した人がいないから定かではないようです。
 幕末に来た外国人のなかには、自分の国とはまったく違う形で発展をとげた日本の姿に驚いた人が多いそうです。日米修好通商条約を締結したタウンゼント・ハリスは、「これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。」と書いています。渡辺京二さんがこうした幕末に来日した外国人の日記をまとめた「逝きし世の面影」を出版していることを吉田様は教えてくれました。

奥深い、奥深い話が聞けたと日本文化のことを聞いたときは思いました。

最後に、吉田様が全体を通して伝えていただいたことを、自分なりにまとめてみました。
2-3.今ある常識にとらわれない
 銀行預金の金利が上がらないのは、不景気だからと私は思っていましたが、吉田様に世の中の仕組みが変わった可能性もあると興味深いことまで教えていただきました。今までの前提としては、物価が上昇するから、お金を預けるならその上昇率に対して金利が付くのが当たり前でした。しかし今、物価はもう変わらない、それどころか下がっています。例えば50年前は、100円で買えていたものが翌年110円を出さないといけない時代だった。しかし今発売された家電製品は翌年値段が上がっていることはなかなかない中、そもそも物価が上がる時代はこの先あるのでしょうか。物価が変わらない以上は金利が付かないはずです。しかし、国が発行しているものが影響していて100万円預けてくれたら2%付くようでそれが現在の利子につながっているそうです。お金をため込んでいくとお金が回らない、物価も上がらないしお金は流れていかないと吉田様から聞き、お金は人々の間で回るものだったということを私は思い出しました。
 日本はデフレだからダメ、「失われた20年」など聞きますが、果たしてそうなのでしょうか。すごく貧しくなっているわけではないし、様々なことが便利になっているので、物価が上がらず金利が上がらないのは悪いこととは一概には言えないと吉田様は気づかせてくれました。経済的に成長しなくても、スマホができ、ポケベルを使っていた時代に比べ確実に便利になっています。日本の経済は大きくならないけれど、何とかうまくいっているのは実は最先端のことかもしれないので、なんで上手くできたのかを調べ世界の見本となるようになればいいのかもしれないと吉田様はおっしゃりました。
 吉田様は、投資家としての見聞を深めるために、MBAをとられたそうです。しかし、その時からなにか変だと思っていたようです。みんな外国ばかりにとらわれてしまって、自分たちの国、日本について調べないでいます。日本という国を調べることが、ここ数年の吉田様の課題となっているようです。日本はどういう国なのかを学びなおして、上記のような歴史を見つけたそうです。奈良時代に資本主義に似た形があったり、老舗の企業が多かったり、また更に何かが見つかりそうです。
「日本の歴史を振り返り、日本民族が得意とすることを認識することで、それとつながる事業は、つまり長期的に生き残る日本企業と分かり、それを長期投資に使えるのではないか。」と、吉田様はおっしゃいました。まだまだ、日本研究を続けていかれるようです。
 
2回に分けてお伝えした、「お金を動かし、社会を動かす」吉田様のインタビュー。まず大きいことは考えず、「自分の事」として身の回りのやれることからやっていく、そんなことを思うお話が聞けました。また個々人が、せめて自分自身がいいと思う方向に、お金を回そうと意思を持ち、お金がどんどん流れていけば日本社会はさらに動いていくということを教えてくださいました。
 つたないインタビューアーだったのに快く引き受けていただき、吉田様に感謝しています。読者の皆様、最後まで読んでいただきありがとうございました。
「常識にとらわれない」ことが伝われば幸いです。

吉田喜貴(よしだよしたか)様プロフィール
ITバブルがピークに達した2000年春から株式投資をはじめて大失敗。その後、簿記・財務諸表を学び、個別企業への長期投資を信条とする。また投資好きが興じて大学院に籍を置いていた時期に、アメリカ偏重の経営学に違和感を持ったことで、日本の歴史・文化の探究を続けている。
2005年~ブログ「投資を楽しむ♪」(http://pixy10.org/)で情報発信を続けている。
2014年~日本サステナブル投資フォーラム(http://www.jsif.jp.net/)の事務局長を担当。
投信ブロガーが選ぶ! Fund of the Year 2016(http://www.fundoftheyear.jp/2016/)にも携わる。